「騎士団長殺し」を読んでの動揺
久しぶりに村上春樹さんの本が読みたくなったので、近所の図書館で「騎士団長殺し 顕れるイデア編」を借りた。
村上春樹さんの本は、「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」「ダンス・ダンス・ダンス」の、僕と鼠の一連のシリーズが好きで、高校生~大学生の時に読んでいた。多分、主人公「僕」のつくる空気に包まれるのが好きだったのだ。
「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」までは、なんとなく読んだけれど、そのあとは遠のいていた。
久しぶりにあの空気感に浸りたくなって、「騎士団長殺し」を読み始めた。
これこれ、これが、私がかつて夢中になって読んでいた村上春樹の小説ですよ!
「僕」から「私」に人称が変わっているけど、醸し出される空気は同じ!
一人で淡々と過ごしているけれど、いい感じにいろんな事件に巻き込まれ、自分と対峙してステップアップする、この感じですよ!!
心地よく読み進め、出張先でも我慢できずに後編の「騎士団長殺し 還ろうメタファー編」は文庫で買ってしまった。騎士団長のあらない語がなんだかクセになる。いなくなってさみしい。新幹線でも読み続け、帰ってからも読み続けた。
最後の最後に、びっくり。
あれ、これ、村上春樹さんの本だよね?間違えてないよね?
てっきり、
妻もセフレの人妻も去っていき、秋川まりえとはたまに連絡を取りながら、主人公は「やれやれ」と言いながら孤高の暮らしを続ける<完>
の流れだと、勝手に思って読んでいた。ところがなんと、今回は、
- 秋川まりえは特殊能力を持たない良い意味で普通の女の子
- 妻の子ども(父親不明)を自分の子と思うことにする
- 「私」が保育園のお迎えに行っている
- というか、世捨て人みたいな生活をやめてる
- というか、主人公が「やれやれ」って言ってないよね!?
という展開。村上春樹さんの作品で、保育園のお迎えに行く主人公が登場するとは。そして、もっと驚いたのは、文庫版第2部(下)の、この一文。
なぜなら私には信じる力が具わっているからだ。
おおお。村上春樹さんが、一周回っている。
クララが立った!
村上春樹が普通の人間になった!(失礼)
いや、私が村上春樹さんを誤解していただけなのか?
この感動(というか動揺)を、誰かと分かち合いたくて、ネットで「騎士団長殺し」と検索して、関連記事を読み漁っていた。
2年前に発売されていた本だから、周りと語るには遅すぎた。
ちなみに夫は、昔一緒に村上春樹作品にはまっていたはずなのに、「べつに好きじゃないし」とのたまい「騎士団長殺し」は読んでいないので、語れない。
そしてたどり着いたのが、以下の二つの記事。
②倉本圭造さんの記事
この二つの記事を読んで、私の感じたことが、より深く言葉になっていると感じた。
振り返ってみると、私は、デタッチメントの時期の村上作品が好きだったよう。コミットメントに変わっていくのに、当時の私は抵抗感があったのだと思う。
もうひとつ、村上作品で消費される女性に対して、憧れと、その女性に自分を投影する自意識があったのだ。
昔の私だったら、秋川まりえが普通の女の子であることをつまらなく感じたかもしれない。でも、今は、これから大人になる普通の女の子が守られてよかったと思う。(免色さんからはぜひ逃げてほしいのだけれど、無理だろうか・・・)
男性が物語を作るうえで必要な架空の(理想的な)女性が都合よく出てくる、そういう女性の取り扱い方は変わっていない。女性の理想形は、村上春樹さんの作品には必須のイデアなのだろう。
ただ、イデアではない(なんでか「私」には懐く理想的な美少女ではあるけれど、超能力者ではない)生身の女の子を助けるために、成人男性(というかおじいさんだが)が頑張ったことが、今までと違うところなのだ。それが、妻の子供を引き受ける結末につながったのではないかと思う。
まとめ。
いくつになっても、人は成長できる。
そして、あらない語はかわいい。